Monday, March 28, 2016

對話:尊重存在 是臺灣較少見的本質(pretend to be well-informed.)

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我寫東西 就是盡量感受自己/感動自己而已。
and "info and web" is my profession. I love it. So I keep writing when I'm free and pretend to be well-informed.

嗯啊。 我不確定你怎麼認知新聞,我確定的是,有用資訊只對有需要的人才有用(這個觀點是從圖書館學來的,"期望"對的資訊在對的時間給對的人)。新聞之後各式各種延伸代表著這個社會的多元與或許是毫無頭緒的自由?

所以最後最後,也許資訊本身真的是無用的。但在最後最後(對於接受者,與被傳播者)之前,惡意惡心都是出自於 他們還在感受這世界,感受他自己。如同外遇本身。

「己所不欲勿施於人。」這句話可以講一千遍一萬遍都不夠,因為很多人沒放在心上,又自以為懂了。

至於外遇本身,我看見了典範轉移,相信之後很愈來愈明顯的。

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from 老侯 台北會社員 and his translation.

日本媒體人片岡英彥,對於乙武洋匡外遇的事情,投稿發表了自己的看法,大意是憂心日本輿論的獵巫氣氛。

標題:乙武氏の「浮気」騒動の「途方も無く薄っぺらい正義感」について(關於「外遇」騷動之「無可救藥的廉價正義感」)

翻譯:老侯

乙武的事,本人絕無議長論短之意。假音樂家事件之佐村河內守、假論文事件之小保方晴子、假公濟私事件之野野村龍太郎,其轟動輿論,良有以也,我本人也不免驚訝世態怪異,進而綽趣獵奇。

但自今年以來,《文春周刊》醜聞報導頻傳,時至今日,已到了食之傷胃的地步,偏偏輿情滔滔、千夫所指,令人毛骨悚然。

「監視社会」「密告文化」之閉塞感,在日本鋪天蓋地而來,陰暗莫名。

批判乙武氏者,不出三類:

(1) 真心見不得「外遇」者。

此類人,正義感十足,其本人行正坐端,與「外遇」絕緣,自不待言;更容不得周遭人們「外遇」的行為。所謂聖人君子者也。其行世如此,我等自該體諒。

只是,我與這類人調性不合。並非我有外遇慾望,僅僅是受不了這類朋友的道德潔癖。試想,連當事人之一乙武夫人都已經原諒了,閣下怒火中燒,是為哪般?所以,我認定這類朋友與我必生齟齬。

(2) 打開始就不曾喜歡乙武者。這類人早想伺機批判乙武,但人家戴著「五體不滿足」的道德光環,正面攻擊自然難以奏效,便將本次事件視為絕佳時機。

此類人的心態也不難理解。即常見之「厭屋及烏」,「藉機發揮」,化「手段」為「目的」者也。如果對象為喜歡的人,說不定「花心」、「外遇」全都能睜一隻眼閉一隻眼。就因對象不喜歡,無論其惡行善行,只要逮到時機,必然奮起批判。此類人,十有八九與批判對象緣慳一面。若真有一面之緣,或許還會留點情面。

(3) 對社會整體不滿者,長年鬱積於中,偶遇人不如己,或自覺己不如人,總伺機教訓,大做文章。我認為這類人數量最多,時時物色箭靶。這種傾向最是恐怖。因其與霸凌成因雷同,見獵心喜。時下媒體也投這類人所好,視為絕佳商機。

稍微顯眼者、話題製造者、與眾不同者,乃至努力有成者,全都成了揶揄的標的。即弱勢群眾之中亦分出三六九等。我想,這就是無形無色的「霸凌」,或醞釀「霸凌」的空氣。我非文學家,此處按下不表,但《阿Q正傳》中的「精神戰勝法」,與此好有一比。

我不是以古非今,但昔日日本遇到這類事情,充其量「無非就是外遇」、「無非就是小倆口的問題」、「無非逢場作戲」,「無非」個兩句,就戛然而止。難不成時代丕變,日後日本凡有從政者被挖出過去緋聞,就該夫婦一同謝罪才行?現職議員又該如何自處?日本要追求怎樣的「潔癖社會」?舉凡國會、縣議會、市議會、首長、公職人員,…有誰底子乾淨?大眾傳媒、網路媒體的從業人員,也該比照辦理。

這類緋聞,既非空前,也不可能絕後。今年以來,我每每想起下面這段《聖經》的句子:

「你們中間誰是沒有罪的,誰就可以先拿石頭打他。」

有資格扔石頭處罰人者,是從無罪愆,真正的善人,也就是剛剛所舉的第一種人。但當今日本,若耶穌復生,在網上做此發言,恐怕耶穌本人即會身當矢石,在網上遭人批判。

對我本篇文章,不以為然者可能不在少數。只是日本人大多化身鬣狗,等著媒體給我們獵物,此情此景之不寒而慄,才是我念茲在茲者。

部分原文:

乙武さんの件について、どうのこうの意見を言うつもりはないのです。また、佐村河内守氏、小保方晴子さん、元兵庫県議の野々村竜太郎氏の騒動あたりまでは、何となくメディアや世間が騒ぐ理由や動機も分からなくはないのです。正直なところ私自身も、「どうなってるの?」くらいの関心と、下世話な意味でニュースに「面白さ」を感じていたのです。

しかし今年の入って、文春のスクープ連発以降、最近は正直なところもう完全に食傷気味です。「飽きる」を超えて、何だか少し一連のバッシング続きの風潮が「怖く」なってきました。

この日本中のいたるところに張り巡らされた「監視社会」「密告文化」的な閉塞感。何とも言えない「暗さ」を感じます。….

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兩年前在一群孩子身上發生了大事,或許你我之中有人覺得沒什麼,但那些媒體不會報導的衝突,不合,分裂,愧疚著實在他們之間發生。那群孩子,雖然他們彼時站在前線箭拔怒張,口中振振有詞,但相對來說,他們也芒刺在背,時時刻刻如履薄冰。事後他們都有不同程度的(心理)傷害。

有人選擇鎖上,有人談起還是落淚,有人不再聯絡以前稱為朋友的陌生人,這不是成功的象徵,所以媒體不會去報導;但那會是他們個人成熟的養份,願每個人都走的再遠一些。
該開心時就發自內心的開心。不帶偏見地,不帶怨恨的,沒有遺憾的。 我看見了,所以真心為你們祈禱。

1 comment:

閔衛(mingway) said...

乙武氏の「浮気」騒動の「途方も無く薄っぺらい正義感」について
乙武氏を非難する「声」には3つの種類があると思います。

(1)本当に「浮気」はいかんと思っている人。心から「許せない」という人。

このタイプの方たちは本当に正義感の強い人です。もちろんご本人は決して浮気などしません。同時に周囲に浮気をする人がいたとしたら許すことができない人でしょう。全てにおいて「正しさ」を重視する。「正しい」人です。これはこれで人として理解できます。

ただし私はこの手の人を友達にしたくありません。私が「浮気」をしたいからではありません。単に「めんどくさそう」なので。。。乙武さんの奥さん(当事者)は完全に「許し」ています。「あなたは誰に対して怒ってるの?」と、つい「怒る人」を「めんどくさい人」だと私個人は思ってしまいます。

(2)乙武氏自身を最初から「キライ」な人。批判したいけど「五体不満足」な乙武氏のことは正面から批判しにくい。だからこの件でこのタイミングで批判する人。

この手のタイプの人の考え方も理解はできます。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」「江戸の敵を長崎で討つ」というのはよくあることです。「手段」が「目的」に変わる人です。仮に「スキな人」に対しては「浮気」しようが「不倫」をしようが何も言わないのかもしれません。「キライな人」に対しては、「良い」「悪い」は別として、この時とばかりに、とにかく「批判」をする。恐らくご本人とは特に面識もない方たちなのだと思います。リアルで知り合いだったら、たとえ「キライ」な相手でも、面と向かって批判はしないのかもしれません。

(3)とにかく何かストレスとか、社会に対する漠たる不満を持っている。誰かを(自分よりも弱い人、あるいは時にはエラい人等)をバッシングすることで、自らの「溜飲を下げる」きっかけを求めている人。

私はこの手のタイプの人が、実際には多いのではないかと思います。だから常に「バッシング」する対象を潜在的に求めている。そして、こうした傾向が一番「怖い」と思います。理由はいわゆる「いじめ」の典型的な構造のような気がするからです。「スケープゴート」を常に探しているというのでしょうか。メディアは世間のこういう風潮を感じ取り、ここにビジネスチャンスを見つけます。

ちょっと目立つ人、話題の人、他人と異なる人、そして最近では、「普通に頑張る人」のことをあえて揶揄したりするケースも目にします。「弱者同士」の中での微妙な「格差」が生み出す現象なのでしょうか。私には、目に見えない「いじめ」のように(あるいはいじめを認める「空気」)も思えます。文学の専門家ではないので詳細の説明は省きますが「阿Q正伝」に出てくる「精神的勝利法」を連想させます。

決して「昔の日本がよかった」などと懐古的なことを言うつもりはありません。ただ事実として、一昔前であれば、「しょせん浮気でしょ?」「しょせん夫婦間の問題でしょ?」「しょせん遊びでしょ?」「しょせん・・・でしょ?」で、終わってた話かなと思います。今後、選挙にでる人は、過去に「浮気」をしていたら、みなさん夫婦で謝罪文出さないといけない時代に日本はなっていくのでしょうか??現役の議員さんたちはどうなのでしょうか?どれだけ日本は「潔癖社会」になっていくのでしょうか。。。日本中の国会や県議会、市議会、首長さん、公職の人・・・いったいどれだけ「資格」があるのでしょう?マスメディアの人たち、ネットメディアの人たちも同様です。

こうしたスキャンダルは過去にも度々ありました。今後も度々出てくると思います。今年に入って何回か、下記の聖書の中に出てくるイエス・キリストの「罪深い女」の中に出てくる言葉を思い出します。

「汝らのうち、罪なき者まず石をなげうて」

石を投げて責めて良いのは「全く罪を犯したことが無い真の善人のみ」だと思うのです。上記の(1)の人たちです。だけど、今の日本でキリストがネット上にこの言葉を書き込むと、きっとイエス・キリストに向かって、石が飛んできて大炎上するのかもしれません。

この投稿に対しても不快感を抱く人が多くいるかもしれませんが、私は日本人の多くの人が「ハイエナ」のようにバッシングできる対象をメディアによって与えられるのを待っているような状態だとしたら、そちらの方が「うす気味悪い」気がしました。

故事們(拾參:Musik)

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